裁判例からみるプライバシー権あれこれ
さて,前回は「日本の裁判で最初に認められたプライバシー侵害」と題して,「宴のあと事件」を取り上げてみましたが,その後,「プライバシー」(やそれに類する権利・利益)がどのように扱われてきたかについて,いくつかの裁判例を取り上げてみたいと思います。
自治体が弁護士会からの照会に対して前科等を回答したことは,プライバシーを侵害する!
裁判例1 最高裁判所昭和56年4月14日判決(民集 35巻3号620頁)
最初に取り上げるのは,法律家の間では「前科照会事件」として知られている裁判です(余談ですが,裁判例に名前がつく場合になぜか「○○裁判」ではなく,「○○事件」となるものがありますね。前回取り上げた「『宴のあと』事件」もそうでした)。
この裁判は,弁護士法23条の2に基づく照会,いわゆる「弁護士会照会」(※1)の方法によって自治体に対して前科等の照会がなされ,自治体(の長)がそれに対して回答(※2)したことにつき,照会を必要とする理由や,回答の必要性等を考慮せず,漫然と回答した自治体(の長)には過失があるとして,自治体に損害賠償が命じられたというものです。
【登場人物】
・甲野太郎(仮名)さん(訴えた人=原告)
・京都市(訴えられた人=被告)
・乙野次郎(仮名)さん(弁護士)
甲野太郎さんは,教習所の指導員をしていましたが,会社から解雇されてしまいました。そこで,甲野さんは会社を相手どって「地位保全仮処分命令」(暫定的に(仮に),従業員としての地位があることを会社に認めさせるための裁判手続きです)を申し立てました。
裁判所がこの申立てを認めたので,甲野さんは従業員としての地位を維持していました。
甲野さんと会社の間では,関連する事件が京都地方裁判所や労働委員会に係属していましたが,会社側の代理人乙野弁護士は,甲野さんに前科等がないかを調べるため,京都市伏見区役所を照会先とする弁護士会照会を京都弁護士会に申し出ました。
弁護士会が,この申出を受けて伏見区役所に照会したところ,(所管が違ったのでしょう)伏見区役所から中京区役所に回付され,これを受けた中京区長が,甲野さんの前科等について回答しました(ちなみに,甲野さんには道交法違反で11犯,業務上過失傷害で1犯,暴行1犯の前科があるとの回答がされたようです)。
この回答を受けた会社は,甲野さんが「前科を秘匿して入社したのは経歴詐称だ」として,改めて甲野さんを解雇したのです。
そこで,甲野さんは,「弁護士会からの照会には中労委に提出するためと書いてあつたから,中京区役所は,これが労働事件に悪用されるのでないか,いかなる労働事件かを京都地労委に問合わすべきであつたのにそれを考えず,通達の有無を調べなかつたことは過失によるものであるから被告は原告がこのため被つた損害を賠償すべきである」として,京都市に対して500万円の損害賠償などを求める裁判を起こしたのです。
【一審の判断:請求棄却】(京都地方裁判所昭和50年9月25日判決)
甲野さんのこのような請求に対して,京都地方裁判所は,弁護士会照会に回答した中京区長に故意・過失はなかったとして,請求を認めませんでした。
以下,判決文より抜粋:
「一般に,市民が前科,犯歴を他人に知られたくない権利を有することは被告も認めているところであり,被告の中京区長が必要以上に原告の前科,犯歴を他人に報告することが原告の信用,プライバシーを侵害するものであることを知らなかつたとはいえないが,同区長は本件照会が公的機関である弁護士会からの法律にもとづく照会であり,かつ,その照会要求に「中央労働委員会,京都地方裁判所に提出するため」必要とあつたので・・・,この文面よりしてこの照会が不法不当な目的に供されるとか必要以上に市民のプライバシーを侵す目的に供されるものと解さず,真実の発見又は正確を期するために要求されるのだと考えても無理からぬところであるからその要求を拒むことに当然正当な事由があり,これを拒まなかつたことに故意又は過失があつたとみることはできない」
【控訴審の判断:原判決取消し,請求一部認容】(大阪高等裁判所昭和51年12月21日判決)
一審で敗訴してしまった甲野さんは,これを不服として大阪高等裁判所に控訴しました。
大阪高裁は,甲野さんの控訴を認め,中京区長は回答を拒否すべき義務があつたのに,これを怠って回答した過失があるとして,京都市に損害を賠償するよう命じました。
以下,判決文より抜粋:
「何人も自己の名誉,信用,プライバシーに関する事項については,不当に他に知らされずに生活をする権利を有し,前科,犯罪経歴は右事項に深い関係を有するものとして,不当に他に知らされてはならず,これは人の基本的権利として尊重されなければならないものである。前科や犯罪経歴が公表され,又は,他に知らされるのは,法令に根拠のある場合とか,公共の福祉による要請が優先する場合等に限定されるべき」である。
(犯罪人名簿を)「保管する市町村が,本来の目的である選挙権及び被選挙権の資格の調査,判断に使用するほかは,裁判所,検察庁,警察,その他都道府県知事,市町村長等の行政庁が,法令の適用,又は,法律上の資格を調査,判断するために使用するとして照会した場合・・・,弁護士会が弁護士名簿に登録の請求を受けその資格の審査に関し調査,判断するために使用するとして照会した場合・・・等にこれに回答するため使用する場合に限られ,一般的な身元証明や照会等に応じ回答するため使用すべきものではない」。
「弁護士法23条の2の照会,報告の制度は,弁護士及び弁護士会を経由して私人に情報を得させ,これを自由に利用させる結果をもたらすことを否定し難いのである。してみると,市町村は,前科等について,弁護士法23条の2に基づく照会があつた場合には,報告を拒否すべき正当事由がある場合に該当すると解するのが相当」である。
【最高裁の判断:上告棄却(控訴審判決を維持)】
控訴審で逆転敗訴してしまった京都市は,「前科の有無は個人のプライバシーの領域に属しており必要止を得ない場合以外は暴露すべきではないことは勿論であるが・・・,弁護士会が所属弁護士の申出を適当と判断して照会権を行使した以上,照会権の公共性は個人のプライバシーの保護より大であると考えられるから,真実発見という司法の利益と衝突する場合には個人のプライバシーは法的な保護を受け得ないものといわねばならない」などと主張し,最高裁に上告しました。
このような京都市の上告に対し,最高裁判所は,「前科及び犯罪経歴(以下「前科等」という。)は人の名誉,信用に直接にかかわる事項であり,前科等のある者もこれをみだりに公開されないという法律上の保護に値する利益を有するのであつて,市区町村長が,本来選挙資格の調査のために作成保管する犯罪人名簿に記載されている前科等をみだりに漏えいしてはならないことはいうまでもな」く,「弁護士法23条の2に基づく照会に応じて報告することも許されないわけのものではないが,その取扱いには格別の慎重さが要求されるものといわなければならない」としました。
そして,中京区長が「格別の慎重さ」をもって回答したかについて,「照会を必要とする事由としては,右照会文書に添付されていた乙野弁護士の照会申出書に「中央労働委員会,京都地方裁判所に提出するため」とあつたにすぎないというのであり,このような場合に,市区町村長が漫然と弁護士会の照会に応じ,犯罪の種類,軽重を問わず,前科等のすべてを報告することは,公権力の違法な行使にあたると解するのが相当」として,中京区長にが格別の慎重さをもって回答したとは言えず,過失があるとしたのです。
なお,最高裁判所は,弁護士会照会に応じて前科等を回答することが許される場合として,「前科等の有無が訴訟等の重要な争点となつていて,市区町村長に照会して回答を得るのでなければ他に立証方法がないような場合」というケースを挙げています。
【雑感】
弁護士は,警察等とは違って強制的に証拠を集めることができません。その意味で,「弁護士会照会」という制度は,証拠収集のため弁護士に与えられた「武器」ともいえるものです。
しかし,弁護士会照会を用いて各種団体に照会した場合に,「回答拒否」という事態に遭うこともしばしばであり,被害救済・権利実現が不当に妨げられていると感じることもあります。
弁護士会照会が実効性をもった制度となるよう,何らかの方策が必要ではないかと改めて考えさせられる事件でした。
※1 弁護士からの申し出により,弁護士会が公務所又は公私の団体に照会して必要な事項の報告を求める,というものです。
※2 自治体においては,選挙資格の有無を確認(調査)するために,前科等について記載された「犯罪人名簿」が作成,保管されています。